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ペット好きふん坊のバンテアイ・スレイへの道のり

森の中の田んぼ
アンコール・ワット周辺の観光は有料です。
3日間有効のキップを買って何時も携帯します。
国立公園の中は木を切れないが耕作しても良い。
そこで、このように森の中の田んぼが出来上がる。
しゅろのように葉を広げるのは「砂糖ヤシ」。
カンボジアの木であり、アンコール・ワットの中にも植えてある。
砂糖ヤシは花のつぼみを搾って甘い汁を取り砂糖を作る。
ココヤシも混在している。

森の中の田んぼ
バンテアイ・スレイはシェムリアップから車で一時間。
車は右側通行。
右ハンドルの車に乗って観光です。
左ハンドルでないと登録できないのでナンバープレートの無いカムリです。
その道は工事中で、割栗を敷きその上に赤土を被せるもので、人々が箕に割栗を入れて運び、手で石組みを組むように敷き詰めていた。
赤牛・水牛・黒い色のニワトリ・ブタなどが飼われている。
犬もけっこう多く居る。
放し飼いである。

お店(露店?)にはペットボトルに入れたガソリンを売るところがある。
子供たちは、自転車に乗るか歩いて学校に通います。
バライという長方形の池がある。
これは栄えていた頃この地を灌漑して2期作を行なうための水を溜めていたが今は砂に埋もれて使えず1期作しか米作りができない。
建築物は王の交代によって引き継がれる事が無く、次々と新しく作られた。
灌漑の池は引き継がれ無かったのだろうか。

高床式の家
家は高床式である。
高床式は、雨季でも水が来なくて涼しい。
風呂・トイレを使う習慣が無い。
また、カンボジアには電気が通っていない。


ガイドのキューさんは言います。
「カンボジアはポルポトのために文盲の世代もいます。
産物を輸出するにはベトナムを経由しなければならないのです。
今の政治に納得できません。」

ベトナムは1965年頃から1973年までアメリカから爆撃を受け続けていました。
飛行機で爆撃され廃墟にしてから、地上軍が殲滅しに来たのです。
しかし、ベトナム人はあきらめる事なく戦い続けました。
男はトンネルを掘り身を隠し武器を蓄え夜闇に紛れて反撃しました。
女や老人は田畑を作り男の戦いを支えました。
学校は田舎へ疎開し子供を教育し次の世代に備えました。
半地下の教室を作り少ない教材は交代で使いました。
ピアノは一人3時間交代で使ったと言います。
一日に8人が練習できたのです。
昼も夜も無い戦いは未来をしっかりと見据えていたから出来たのです。
教室にはホーおじさんの写真が飾られていました。(ホーチミン)
歌を覚えた人は慰問に行きました。
慰問した軍も病院も次々と爆撃され死んでいきました。
国民が一つになっていたから戦い続けられたのです。
ホーチミン市(サイゴン)米総督府にベトコンが戦車で突入する事によってベトナムが勝利を勝ち取りました。

カンボジアは屍骸に湧いた蛆虫のようなポルポトによって知識人を皆殺しにされていきました。
残った人々は組織して立ち上がることができずに消耗していったのです。
アンコール・ワットが森に飲み込まれた時のように文化が消えていくのでしょうか。
ベトナムがポルポトを撃破して今に至っています。
カンボジアではベトナムの属国にされたと思い反感を持っています。
しかし、学校が出来て子供の教育が始まっています。
道路は人力で栗石を敷き赤土をかぶせて車が走れるように整備しています。
このような地道な教育とインフラ整備で未来が切り開かれると感じた。


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盆栽の美しさを構成するうえでの枝の役割は重要です。
一般に、幹の太さに比較して、枝が細いほうが樹は大きく感じられるのですが、この樹の場合は、ぐっと太い幹ですから、この枝で細すぎて調和を欠いて物足りません。
もっとも、細い枝は太らせることができるから良いのですが、太い枝を細くすることは絶対にできないのです。
幹の割に太くしないように たえず注意して樹づくりをするようにしなければなりません。
ぶなは上部の枝に勢力が集まり、上部の枝ばかり強くなってしまいます。
樹全体にバランスよくできるように、勢力を配分することが整姿上大切です。
この樹の場合は、当然、下枝にもっとも強く勢力をつけて太くさせたいものです。
下枝が元気よく育つように芽つみ、剪定、施肥などを計算して整姿しなければなりません。
ぶなは、他の雑木のように葉刈りをして、上部の強さをおさえることはできないし、三年枝位までの若い枝でないと切れないので(古い枝は傷跡が醜くなる)一度は樹形の乱れを覚悟して、整姿して行かないと調和のある枝づくりはできないでしよう。
そして、この樹が、さらに出世するのは枝配りの良さによるのですから、枝と枝との開き具合や、枝と枝との長さのハズミ、枝と枝との太さのバランス、左右の枝の変化の妙をみせるようにしたいものです。
また、枝葉が繁っているばかりの盆栽では趣があ12ません。
繁りの厚い薄いの強弱の変化をつくることもこころがけてください。
盆栽をつくるという時、大別すると二つの立場かある。
業者と趣味家の場合である。
業者はしばしば「趣味家がうらやましい。
盆栽を商売にしていると、せっかくつくった木でも売らなければならない」と嘆く。
盆栽か急激に大衆化した時期に、趣味家から業者へと転身した例は数多いが、そのような人ほど『趣味家時代』を懐しむ傾向にあるようである。
ひとたび業者になってしまえば、白分がつくったいようにつくるということは、きわめて至難であろう。
いきおい、売12物になるよバ、冒毎種木を求め、売り物になるようにつくる術を身につけなげ雄ばな房な奪なる。
畿つでも、たとえ売ったにしても、その後の手入れを引き続きできるどいう場合には、業者は仕合わせである。
このようなケースがある程度まで保証されれば、白らの作風を磨き、追求していぐこども可能になる。
だから、業者にしてみれば、お客とできるだけ緊密になろうとし(また、気心の知れたお客にだけ売りたいと思うのも、ごく当然のことである。
一方、趣味家の場合、売り物になろうとなるまいと関係ないはずだから、白由に気のおもむくままにつくればよい。
人にほめられようと思わなけれぱ、なおのことである。
しかし、現実はそう単純に割り切れるものではあるまい。
実際に売らないまでも、白分のつくった木が二束三文の値打ちしかないということを否定する気持ちを、誰しもが潜在的に抱いていよう。
いざ売るとなったら、高く売れたほうがよい。
しだいに野心的な試みは薄れ、安全策を択ぶようになる。
こう見てくると、業者と趣味家とは、その立場こそ違え、ひじょうに似通った状況にあることに気づく。
両者とも結局は、売り物になる木をつくっているのではないか。
少なくとも、そうなりかねない要素をはらんでいるのではないか。